ありぎりす の徒然日記

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zoom RSS 私がキリスト教徒にならない理由

<<   作成日時 : 2012/01/13 11:06   >>

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私は昨年のクリスマスに以下のように書きました。
 『「愛する」ということについて 』
 http://arigirisu.at.webry.info/201112/article_4.html
>まぁ、何にしても今夜はクリスマスイブです。
>”リア充”な人にも、そうでない人にも
> メリークリスマス
>
>ささやかな祝福を贈る ありぎりす であった。

だけども、私は、キリスト教徒ではありません。

私は、キリスト教に限らず、特定の宗教を信仰していません。
そうは言っても、私は、無神論者でもありません。

私が、無神論、唯物論の立場をとらない理由は、
以下ののブログを参照して下さい。
 『何故、人を殺してはいけないのか? 』
 http://arigirisu.at.webry.info/201011/article_5.html

実を言うと、私は小学生のころ、キリスト教の日曜学校に通っていました。
当時の私のお小遣いは、50円/月で、
一回の献金に10円出していましたから、
私は収入の80%(日曜日が5日ある月は100%)を
教会に支払っていました。 (T T)
なぜそこまでして日曜学校に通ったのか? というと・・・、
私たちの世話、指導をしてくれたのが、優しくて
美人のおねぇさんだったからなのは言うまでもありません。(´▽`)

さて、真面目な話、私がキリスト教徒にならない理由は、
大雑把には以下の二つです。
 ・神との契約
 ・自己犠牲の称揚

どうにも私はこの二つを受け入れることができないので、
私はキリスト教徒にはならないのです。
今回は、主に「自己犠牲の称揚」について書いてみます。


キリスト教では、イエス・キリストが、人間の罪を背負って、
十字架に架けられた、ということから、「自己犠牲」は尊い行為だ、
と教える傾向が強いようです。

「自己犠牲」は尊い行為。
はたして本当にそうでしょうか?

ここで、遭難した宇宙船の問題を考えてみます。
 Aさん、Bさん二人の人が乗った宇宙船が遭難して
 救助を待っているが、酸素の残量が一人分しか無い。
 という状況で、さぁどうするか?
という問題です。
(ただ、まぁ、そういう究極の決断を迫られるような
 状況に陥らないように事前に智恵を働かせるのが
 肝要とも、私は思うのですが・・・)

以下に、Aさん、Bさんのとりうる行動のパターンを列挙してみます。
 (1)AがBを殺して、Aが生き残る。
 (2)BがAを殺して、Bが生き残る。
 (3)AがAを殺して、Bが生き残る。
 (4)BがBを殺して、Aが生き残る。
 (5)AもBも誰も殺さずに、酸素不足でA、B共に死ぬ。
 (6)AがBを殺し、BがAを殺し、誰も生き残らない。
 (7)AがAを殺し、BはBを殺し、誰も生き残らない。

こんなところでしょうか?

(5)は「共倒れ」、(6)は「相討ち」、(7)は「心中」
ですが、「宇宙船」の外から見れば、「生存者なし」という
同じ結果です。

(1)〜(4)についても、「一人生存、一人死亡」という
同じ結果です。

この中で、(3)と(4)が「自己犠牲」ということになるのですが、
(1)、(2)と何が違うでしょうか?

(3)、(4)の特徴は、生き残った人は、能動的に何もせず、
殺人という罪も犯さないで、他者の死と罪を糧に生き延びた、
ということです。
一言で言えば「タダ乗り」ということです。

私には、他者に対して「自己犠牲は尊い」と言うことは、
 「あんた、私のために自殺なさい(罪も犠牲も負いなさい)」
と言うのと同じで、「タダ乗り」を目論んだ卑しい行いに思えるのです。

ですから、私は自己犠牲を称揚するキリスト教を信仰しないのです。

しかし、日曜学校での収穫は、
 「キレイなおねぇさんとお話できた」
というだけではありませんでした。

ある日、私は以下の言葉に出会いました。

  「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな」など
  いかなる戒めがあろうとも、つまりは
  「汝が汝を愛するように汝の隣人を愛せよ」
  ということなのである。

 新約聖書 ローマ人への手紙13章9節

要するに、「愛」はあらゆる律法を果たす、ということです。

そして、「自己」と「他者」の尊さは等価だ、ということです。
(宇宙船の外から見れば、AもBも「他者」、同じ一個の人間です。)
もっと言えば、「他者」を犠牲にすることが、「罪」ならば、
「自己」を犠牲にすることも、やはり「罪」ということです。

「自己犠牲」は尊い行いではありません。

私は、上記の言葉に出会って、
 『それなら、これさえ理解すれば、難解で分厚い聖書を
  隅から隅まで読む必要は無いではないか』
と思いました。

時期を同じくして、私たち家族は教会から離れた市内に
引越しましたので、自然と教会から足は遠のき、
キリスト教とも縁が切れてしまいました。

そんな、こんなで、
私はキリスト教徒にはならなかったのです。

それにしても、まぁ、いまに至ってもまだ、
 『キレイなおねぇさんと縁が切れたのは惜しかったなぁ』
などと不埒なことを思う ありぎりす なのであった。

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
通りすがりですが、面白い記事を拝見しました。自己犠牲は人に教えるのが難しいテーマだと思います。愛は存在を喜ぶことだとありましたが、その通りだと思います。しかし、愛するがゆえに、自分の命までとは言わないまでも、お金や時間を割いてでも何かをしてあげたい、それも愛することであり自己犠牲だと言えると思います。好きな女の子のために誕生日プレゼントを選んでいる時間は楽しく犠牲なんて意識はありませんが、これも自己を犠牲しているのではないでしょうか。私は自己犠牲を無理にする必要はないと思います。でも自己犠牲をしている人を嫌いにはならないでくださいね。
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