ありぎりす の徒然日記

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zoom RSS 私がカソリックを嫌いになった理由

<<   作成日時 : 2012/03/14 09:58   >>

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まだ5才4才の幼児だった頃、
私はカソリック系の幼稚園に通っていました。
そこでは、お祈りの時間というのがありまして、
園児に目をつむって神様にお祈りをさせていました。

 『私たちに目をつむらせておいて、
  いったい何をやっているんだろう?』
気になってしかたない私は、薄目を開けて
あたりの様子を窺ってしまいました。

すると・・・
 「きちんと目をつむってお祈りをしなかった子がいるので
  ウメ組の子供はお昼休み外で遊ぶのを禁止します。」
と言われてしまった。

私は不平を言いましたがとりあってもらえませんでした。

だいたい、「目をつむってお祈りをしなかった子」を見つけるためには、
先生たちは、「お祈り」なんてそっちのけで、
目を開けて、子供たちを監視していたことになります。
なんとも、不公平で不条理な話です。

それ以来、私はカソリックが大嫌いになりました。 (-_-メ

「罰」というのは、「恨み」や「恐怖」を作り出しても、
「反省」をもたらしたりはしないものですね。

以下のニュースを見て、昔のことを思い出した、
ありぎりす であった。

 「君が代で口の動き「監視」 橋下氏友人の民間校長」
 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/357160.html

 「祝辞そっちのけ、不起立教員批判…維新府議 卒業式で」
 http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120313-OYO1T00229.htm?from=main2


おまけ:
vvvvv 以前mixiの日記に書いた内容を以下に再掲 vvvvv
『包装紙よりも饅頭が大事』

あまりに面白いので今回も、「あ01−23」さんのコメントを取り上げます。
(「面白い」というのは、重要な問題を含んでいるので興味深い
 ということで、からかいの意味ではありません、念のため)

「あ01−23」さんの2番目のコメントがこれです。
>あ01−23
> いえ、ありぎりすさんの日記全体を見て思いました。あまりにも主張おられる内容が、社民党系・共産党系の方と酷似しているので。社民党・共産党が左翼であることには異論ないでしょう。
>
> もし差し支えなければ、以下の質問にお答えいただけませんか?貴重なデータになります。
>
> (1)皇室を尊敬していますか?
> (2)国旗・国歌を重んじますか?
> (3)憲法9条改正に賛成ですか?
>
> 「他人の主義主張を、「左翼」「右翼」などという粗雑な決め付け」というのは、ご自身が過去の日記で他人を「極右」呼ばわりしておられますよね。

最初のコメントで「あ01−23」さんは、
私が「左翼張りの主張」をしていると書いたのですが。
彼はそれを具体的に示すことができませんでした。
(言いがかりは迷惑ですねぇ)
そこで、彼は、彼なりのリトマス試験紙(質問)を出してきます。
これで、彼は私を、酸性かアルカリ性か、敵か味方か、左翼か左翼でないか、
判定しようというわけです。
それにしても、大雑把で乱暴な分類のしかたです。
血液型占いだって4分類、星座占いだって12分類です。
「十人十色」という日本語、知らないんでしょうかね?
日本には一億三千万人もの人間がいるというのにねぇ。
これが、デジタル脳というかゲーム脳とかいうやつなんでしょうか?
それで、私が質問に答えたら
 「左翼フラグキターーー(≧∇≦)」
ということで勝手に左翼認定して、前回の日記で書いた、
三段論法を使って結論を出すんでしょうか?
困ったもんです。
そんな遊びに付き合ってはいられません。


前回の日記に追記して私は、
>私と彼(彼女?)との対立軸は、
> 「差別主義」 対 「平等主義」 である。
と書きました。

ですが、もう一つ重要な対立軸を書き漏らしていました。
それは、
 「国家主義」 対 「個人主義」 です。

簡単に説明すると、
 国家主義:
  なによりも国家の権威と意志を優先する考え。
  国家あっての国民、国民は国家の従属物という考え。

 個人主義:
  「利己主義」と混同する人が多いけど別物。
  社会や集団も個人の集合と考え個人の意義を重視する考え。
ということです。

ところで、「国家」って何でしょうか?
私は遠い昔に社会科の授業で、
 「国家とは、「国民」と「領土」と「主権」である」
と習いました。

日本は、一応「主権在民」つまり、主権は国民にある、
民主主義国家を標榜しています。

ですから、日本における「国家の意志」とは、
「日本国民の意志」ということです。
(「領土」に「意志」はないですからね)

そして、
橋下知事や「大阪維新の会」や「あ01−23」さんなどが
重視している、「国旗」、『国歌」、「皇室」などは
「日本国を象徴するもの」なわけです。

私も、「日本国を象徴するもの」を蔑ろにしてよいとは考えません。
しかし、「象徴」よりも日本国の実体である「日本国民」個人の
自由意志尊厳のほうが優先されるべきなのです。
要するに、
 饅頭の包装紙よりも饅頭そのもののほうが大事ですよ
ということです。


ここで、また思想家の内田樹さんのブログをご紹介。
 「賛美歌と国歌について」
 http://blog.tatsuru.com/2011/03/03_1034.php
----- 一部引用 リンク先で全文読むことを勧めます -----
高橋さんが書いている通り、アメリカ合衆国の最高裁は国旗損壊を市民の権利として認めた。
自己の政治的意見を表明する自由は国旗の象徴的威信より重いというアメリカ最高裁の判決はさすが「理念の上に作られた国」の首尾一貫性を感じさせる。
私もこのアメリカ最高裁のロジックを支持する。
それは、国旗国歌の良否について国民ひとりひとりの判断の自由を確保できるような国家だけが、その国旗国歌に対する真率な敬意の対象になりうるだろうと思うからである(私はご存じの通り、国民国家はできうるならば国民の自然な敬愛の情の対象であるほうがいいという立場である)。
強権を以て政治的象徴への敬礼を市民に強いるような社会では、しばしばそれは憎しみを込めた毀損の対象となる。旧ソ連のレーニン像もリビアのカダフィ大佐の肖像もその運命を免れることができなかった。
「敬意を表しないものを罰する」というやり方は恐怖を作り出すことはできるが、敬意そのものを醸成することはできない。
----- 引用ここまで 強調byありぎりす -------------------------

民主主義を支えるのには、自律した個人それぞれが自由意志を
表明する権利が保証されていなければいけません。
ゆえに、個人の尊厳を守ること、「個人主義」は、
「民主主義」を支える重要な柱の一つなのです。
ですから、私と多数派を正義と考える「あ01−23」さんとの対立軸は、
 「ファシズム(全体主義)」 対 「デモクラシー」
と書くこともできるのです。
(もっとも、「あ01−23」さん自身は、自分が「差別主義者」の
 「ファシスト」だという自覚はないでしょうけれどもね)

しかし、「民主主義」、「デモクラシー」が無条件に良いこと、
というわけではありません。
「民主主義」は、主権者である国民一人一人が
自律した賢明な個人でなかったならば、
容易に衆愚政治に堕してしまうものです。

ですから私は今回の大阪市長選挙について、
 「ことの成り行きを興味深く見つめる」
と書いているのです。

ところで、「あ01−23」さんはどうして
あれほど強固に、「左翼」は「悪」だ と考えるのでしょう?
第二次大戦後、米国は旧ソ連をはじめとする共産圏を脅威として、
米国内や占領下の日本で徹底的な思想弾圧を行いました。
「赤狩り」とか「レッドパージ」と呼ばれる出来事です。
それ以来、読売新聞をはじめとする日本の新聞、テレビ、
資本家たちは、これに協力して労働運動潰し、宣伝工作を
行ってきました。
「あ01−23」さんなどの強烈な思い込み、刷り込みは
こうした活動の成果ということなのかもしれません。

最後に、またまた内田樹さんのブログをご紹介。
 「格差と若者の非活動性について」
 http://blog.tatsuru.com/2011/10/18_1255.php
----- 一部引用 ----------------------------------------
今の日本社会に致命的に欠けているのは、「他者への気づかい」が「隣人への愛」が人間のパフォーマンスを最大化するという人類と同じだけ古い知見です。
----- 引用ここまで ------------------------------------
 「アンケートの続き」
 http://blog.tatsuru.com/2011/10/23_1031.php
----- 一部引用 ----------------------------------------
今の日本の格差社会は「アメリカ的社会観」が作り出したものです。そして、これまでの質問でお答えしてきたように、若者たちは「アメリカ的社会観=能力のないものが階層下位にとどまるのは当然であるという考え方」を深く内面化しております。
ですから、もし彼らが「アメリカ的な社会観・人間観からの脱却」という枠組みで、「格差社会の是正」ということを言い出したら、その主張は広範な国民的共感を獲得する可能性があります。
「もともと日本には、弱者をとりこぼさないような相互扶助的な社会システムが整っていたのではなかったか?そのような『古きよき伝統』に回帰しよう」というタイプの主張を若者たちが掲げたら、大きな「うねり」が発生する可能性があります。
でも、若者たちはあまりに深くアメリカ的な利己主義に嵌入しているので、そういう「アイディア」は彼らからは出てくるようには思えません。残念ながら。

日本で劇的な社会改革運動を起こそうとしたら、それは「アメリカの属国であることを恥じる、主権奪還の闘争」として行われる他ない。そして、そのように考えている人間はとりあえず政治の世界にもメディアの世界にも、もちろんビジネスの世界にもほとんどいません。
----- 引用ここまで ------------------------------------

さらにおまけ
 「ネット上の発言の劣化について」
 http://blog.tatsuru.com/2011/08/01_1108.php
----- 一部引用 ----------------------------------------
根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに「言論の自由」に対する侵害として退けられなければならないのである。
  ・
  ・
言論の自由には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思う。
----- 引用ここまで ------------------------------------

^^^^ mixi 再掲ここまで ^^^^^^^^^^^^^^^^

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